校長がPTAに寄付を要求することに問題はないのか?「真摯な同意」という名の「強制」の是非を問い正せ
この記事の対象者
- 学校から備品購入の打診を受けたPTA役員
- PTA会費が学校運営の補填に使われている実態に疑問を持つ保護者
この記事でわかる事
- 学校からの寄付要請の構造的問題
- 公立学校における義務教育のあるべき姿
- 実態調査例と、正常化に向けた改善のプロセス
「PTAからの寄付が無いと、学校運営がままならない」
そんな自治体、そしてそれを放置している国に喝!
校長からPTAにおねだりするなんて?! 教育委員会の対応は?

初めに断っておきますと本稿は私の体験を元に作成した、ちょい長いお話です。
プロローグ:校長がPTAへ寄付を「おねだり」
「PTAで体育館にプロジェクターを買ってもらえませんか?」
小学校の校長からのこの一言が、私を今回の長い考察へと導くことになった。
違和 感を覚えたのは、それが単なる「お願い」ではなく、暗黙の「要求」に聞こえたからだ。
学 校のトップがPTAに学校備品の購入を要求する――
これって本当に正常なことなのだろう か。
区の教育委員会の回答:「真摯な同意」という、まやかしの言葉
PTAから学校への寄付は違法なんですか?で書いた通り、私はこのあたりの考察に関してちょいうるさい。
そこで校長のリクエストに関して管理責任者の見解を問うべく、最初に区の教育委員会に電話をしてみた。
「私はPTAの役員ですが、校長から備品の購入を依頼されました。PTAの経費で購入すべきものではないと思うのですが、校長がこのようなリクエストをするのは問題ではないでしょうか?」
教育委員会の電話口からは、このような返事が返ってきた。
「PTA側からの真摯な同意があれば、学校が寄付を受けても問題ありません」
この区の教育委員会の対応は、おそらく全国の多くの自治体の姿を映し出し ている。
実際、文部科学省の調査や各地の報道を見れば、全国各地で同様の問題が繰り返されていることがわかる。
私が所属する東京の一区だけの特殊な事例ではない――
これは日本全体に広がる構造的問題なのだ。
先ほど彼はこう言った。
「真摯な同意があればOK」
この言葉には、いくつもの疑問符がついた。
- 学校長という権威者からの依頼を、保護者が本当に断れるのか?私のように異論を唱えるのは極めて例外で、ごくごく少数派だろう(っていうか1人かもしれない)
- 「真摯な同意」とは、具体的にどのような手続きを指すのか?恐らくこっちにお任せなんだろうな
- 同意の「真摯さ」は、誰がどのように判断するのか?どうせ考えてる訳ないぞ
「なんだこれ、きっと思った以上にザルなんだ!」と思い、私は食い下がった。
「校長から頼まれれば、普通のPTA役員は断れないし、事実上の強制ですよ?」
面倒くさいヤツだと思われたんだろう。
数人たらいまわしにされた後、委員長と名乗ったから一番エラそうな感じのおっさんから も、同じ回答が返ってきた。
「 真摯な同意があれば何の問題もないんです」
あーだこーだと反論したが、まるで壊れたレコード(今やレコードを知らない人もいるんだろうけど)のように、同じ言葉が繰り返されるだ けだった。
都教委の回答:50年以上前の通達が語る真実
ダメだ、こいつでは話が通じない。
私は納得できず、さらに上部組織である東京都の教育委 員会に問い合わせた(後に記すが、当時は東京都教育委員会は◯◯区教育委員会の上部組織だと思った)。
そこで初めて知らされたのが、昭和42年(1967年)に発出された通達「義務教育における私費負担の解消について」の存在だった。
この歴史的ともいえる、50年以上前に公表された文書は、最初に電話した区の教育委員会の説明とは全く異なる世界観 を提示していた。
戦後教育の「隠れた負担」と昭和42年の決意
義務教育の「裏側」学校運営を支え続けたPTA
戦後日本の教育復興は、しばしば奇跡として語られる。
しかし、その奇跡の 裏側には、語られることの少ない真実があった。
PTAが、本来は公的に負担されるべき教育費を肩代わりしてきた のだ。
当時の状況を想像してほしい。
戦後の混乱期、国や自治体には学校運営に必 要な予算が十分になかった。
教室の修繕費、教材費、備品購入費――
これらの多くが、 実際には保護者のPTA会費や追加の寄付、バザーの収益金などによって賄われていたのが実態だったのだ。
私自身が小学生の頃を思い出す と、どこの学校でも、体育館ステージの立派な緞帳にはPTA寄贈と書いてあり、ぼん やりとした違和感を感じていたのを思い出す。
現代の私たちが享受している教育インフラの多くは、かつての保護者たちの 「私費」によって築かれたものなのだ。
それは美談として語られることもあるが、同時に 義務教育の本来あるべき姿からの逸脱でもあった。
変わらなかったPTAの役割
戦前の日本には、学校後援会というものが存在した。
表向きは教育の振興を目的として いたが、実態的には物的(金銭的)にも人的にも学校を援助することが主な役割だった。
戦後の PTAは「Parent – Teacher Association」――保護者と教師が子どもの教育について協力し合い、相互理解を深める場としてGHQの意向を受けた文部省(当時)の号令の下で発足した。
しかしその内情は、旧態然とした学校後援会となんら変わることは無かった。
PTAは学校のリクエストに応じてお金と無償の労働力を提供する、校長連中にとっては極めて都合のいい組織であり続けた。
このあたりの 事情については公益社団法人日本PTA全国協議会が圧倒的に詳しいのでPTAが大好きな方は一読されたい。
バザーの収益、会費の一部、そして追加の寄付。
これらが当然のように学校運営費に組み込まれていく構造が、長年固定化された。
つまり、学校がPTAのお金をアテにするのが普通で、PTAの誰も、学校側の誰もそれを疑問に思わなくなっていったのである。
歴史的転換点
しかし、昭和42年、東京都教育委員会は勇気ある決断を下した。
長年続いてきた公立学校の「私費負担」の慣習に、正面から異を唱えたのだ。
「従来、父兄を主たる会員とするPTA、後援会、その他の団体から、学校後援のための寄付が行われてきた。こうした慣習は、おうおうにして、強制にわたる懸念もあり、一方このたびの措置(筆者注:児童生徒数に応じて学校に助成金が出ることになったことを指す)により学校運営費が確保されることになるので、今後はこの種の寄付は 受領しない」
と明記されている。
ここには三つの重要な認識が示されている。
- 「寄付」といっても実質的には強制になりやすいという構造的な問題の指摘
- 公費による学校運営費の確保という原則の確立
- 寄付を受け取らないという明確な方針
特に注目すべきは、1番目。
私自身が感じた事実上の強制力を的確に表現していた。
そして3番目では寄付を受け取らない旨を言明している。
ここでは「真摯な同意があれば受領しても問題ない」などという例外規定を 一切設けていないことに注目すべきだ。
都教委は、同意の「真摭さ」を判断する ことの困難さ、そして教員と保護者の力関係の中では同意に限界があり、事実上の強制力があるから、例外規定があると、それがただの言い訳に使われる可能性が高い、そのように理解していたのだ。
50年以上も前、昭和 42年の時点ですでに。
その深い洞察たるや、賞賛に値する。
それに比べて先の「真摯な同意があればOK」と軽々しく答えた区教委の馬鹿どもはお仕置きに値する。
この違いはなんだ?
都職員と区職員の知能ランクの違いを見たようであった。
「正常な姿」とは何か
この通達は、公教育における私費負担を「教育の正常な姿ではない」と断じてい る。
では、「正常な姿」とは何か。
それは極めてシンプルだ。
義務教育に必要な費用は、すべて公費で 賄われるべきだということ。
要するに、公立学校の運営に当たり、必要な経費は学校の設置者たる地方自治体が負担するということだ。
というのも、保護者からの寄付を際限なく受け入れるなら、いわゆるお金持ちエリアの学校の児童生徒は冷暖房完備のキレイな校舎で、給食はいつもフルコース、有名な運動選手をコーチに迎え、、、と言った事になりかねない(それは営利目的で教育サービスを売る私企業たる私立学校に任せればよい)。
他方で、そうではないエリアの児童生徒は十分な設備が提供されず、教育環境の整備すらままならない、けど仕方ないということになってしまう。
保護者の経済状況によって、子どもが受けられる教育に差が生じてはならない。
これが日本国憲法第26条が保障する「教育を受ける権利」の本質である。
「ねじれ」の構造と「真摯な同意」の虚構
東京都教育委員会と区教育委員会、二重構造の謎
ここで素朴な疑問が浮かぶ。
なぜ東京都教育委員会と区教育委員会とで、こう も見解が異なるのか。
「東京でもPTAは寄付してるぞ」というブログ記事を見かけたことがある。
多くの人が誤解しているだろうし、私自身、都の教育委員会の電話口で話を聞いて知ったの だが、区教育委員会は都教育委員会の下部組織ではない。
地方自 治法に基づき、都と区はそれぞれが独立した執行機関であり、いわばヨコの関係なのだ。
だから、区教育委員会は都教育委員会の意見を参考にすることはあれど、必ずしもその意向に沿う必要はない、という関係にある。
よそはよそ、ウチはウチ、でも構わないという訳である。
この制度設計が、運用の「ねじれ」を生んでいる。
都立学校におけるPTAからの寄付の実態
話を聞く限り、東京都教育委員会が直接管理する都立学校(ほぼ高校や特別支援 学校で、小中学校はごく一部)では、昭和42年通達に基づいた運用が比較的徹底されているように思われた。
- 校長からPTAへの寄付依頼は原則として禁止
- PTAからの申し出があっても、公費で対応すべきものは受け取らない
- 例外的に受け取る場合も、厳格な手続きと透明性が求められる
つまり、都教委の建前と実態は一致しているのだ。
区立学校におけるPTAからの寄付の現実
一方、23区や市町村が管理する小中学校では、状況が大きく異なる。
もちろ ん、私とて、すべての区に意見を求めた訳ではないのでおそらく濃淡があることを前 提に読んで頂きたい。
- 校長がPTAに直接「おねだり」する事例が散見される
- 「真摭な同意」があればOK。という曖昧な基準で寄付が正当化される
- 保護者が断りにくい空気が醸成されている
なぜこのような差が生じるのか。
それは各自治体の財政状況 と教育予算配分の優先順位に大きく依存しているのだろ うと推測する。
PTAの同意は本当に自由意思なのか
区の教育委員会が繰り返す「真摭な同意があれば問題ない」という論理を、 もう一度検証してみよう。
社会心理学の知見を引き合いに出すまでも無く、権威者からの要求に人は従いやすい。
これは「 権威への服従」として知られる現象だ。
要するに社会的に立場のある人の発言には相応の重みがある、というごく当たり前の話。
校長という立場の人物が、保護者組織である PTAに依頼をする――
この構図そのものが、既に対等な関係性を損なっている 。
本来は、PTA組織において、保護者も校長も他の教員も同列であり、上下関係はない。
しかし、多くの保護者は暗黙のうちに看過しがたい上下関係を受け入れているはずだ(ちなみに私は全くその感覚を持っていない)。
さらに、PTA役員という立場も考慮しなければならない。
役員たちは以下のような考えをもっていることが多い。
- 学校との良好な関係を維持しなければならない
- 他の保護者から「学校のために頑張ってる」と思われたい
- これまでずっとこうしてきた、という伝統(?)は維持しなければならない
このような状況下で、校長から金品の依頼を受ければ、私が疑問を呈したように、何ら反論すること無く、2つ返事で同意してしまうのも無理はないのだ。
その「同意」を、果たして「真摯な同意」と呼べるだろうか。
PTAの同意の検証可能性
さらに根本的な問題がある。
「真摭な同意」があったかどうかを、どうすればわかるのか。
「真摭な同意」があったといえるにはどうなればいいのか?、ということである。
- PTA総会での挙手による承認があればいいのか(反対しにくい雰囲気が あるんじゃないか?多数決でいいのか?)
- 役員会での決定があればいいのか(役員たちに選択の自由はあった か?)
- 保護者にアンケート調査を実施して過半数なら良いのか(匿名性は確保 されていたか?、過半数でいいのか?)
多くの場合、これらの手続きは形式的に行われるだけで、真の自由 意思が確認されることはない。
となると、実質的には校長とPTA会長の間で決まってしまう場面も少なくないだろう。
なぜPTAの公費負担が変わらないのか
昭和42年通達の中では、都が生徒数に応じて各学校にお金を出すから、学校はPTAに資金援助をお願 いするのを止めなさいという趣旨の記述が見られる。
しかし、それから60年ほどが経過した 今も、なぜこの問題は解決していないのか。
いくつかの要因が考えられる。
1. 予算の恒常的不足
多くの自治体で、教育予算は十分とは言えない。
学校現場のニーズと予算配 分の間には、常にギャップが存在する。
つまり、都の側は「これで足りるだろ」と考えているが、校長をはじめとして学校の運営側は「全然足りない」と考えていて、そのギャップを埋める「便利な手段」とし て、財政面でも人手の面でもPTAへの依存が続いている。
2. 慣習の力
「昔からそうしてきた」という慣習の力は強い。
新任の校長も、前任者のや り方を踏襲しがちだ。
昭和の時代からPTAに寄付を依頼することが「当たり前」だと思ってきた校長もいるわけで彼らの考え方を変えることは、容易ではない。
冒頭でプロジェクターを要求してきた校長も、PTAに買ってもらうことが当たり前の文化の中でこれまで教員生活を続けてきたのだ。
逆に、PTAの人達も
「今まで毎年払ってるのに今、理想論をかざして支払いを止めたら学校が困るだろう」
「文句をいう保護者も出てくるかもしれない」
「今まで通りやってれば非難される筋合いはない」
と考えがちだ。
再三、飽きるほど指摘している前例踏襲、やぶ蛇、寝た子を起こすな、という訳である。
3. 問題の可視化の困難さ
より一層、この問題が認知されにくい事情がある。
PTAから学校への寄付は、表面的には「学校とPTAの良好な協力関係」として見えないこともないということだ。
本部役員の中にも、備品を購入して寄付すれば学校が喜んでくれるし、子供たちも恩恵を受けるのだから問題ない、むしろ、積極的にPTAの経費で購入すべきだと考える人も少なくない。
実は被害者(と呼んでいいかは悩ましいけど)である保護者は上記の通りだから、被害者たる認識すらも持っていなかったりするわけで、声を上げにくく、問題が埋もれたままになりやすいという構造がある。
4. 「子どものため」という大義名分
PTAでしばしば出てくる「子どもたちのために必要なものだから」という理屈は、反論を封じる強力な武器となる。
「子どものため」と言われたら誰も反対することはできな い。
反論すれば、子供の健やかな成長を願っていないのか?と思われかねない――
この心理が利用/悪用されている。
「PTAからの寄付」実態調査が浮き彫りにした深刻な現実
近年問題となった事例でいくつか記事を引用しよう。
50年以上前に東京都教育委員会が訴え たことが他の自治体ではなんらの問題とされること無く当然のこととして、長年にわたり続けられてきたことが分かるだろう。
高松市の1億円問題:公費不足が生む保護者負担
学校運営のためにPTAなどからの寄付がどれくらい使われているのか。
高松市立小 中学校71校のうち、68校で年間に総額計1億円以上が支出されて いることが、市議の各校への調査で判明した。
学校運営経費は公費負担が原則だが、 教材や備品購入、新型コロナウイルス対策に寄付が充てられていた。植田真紀市議による調査では、2018~20年度の3年間で、小学校49校中46校、中学 校22校全てでPTA会費からの支出があった。
小学校ではおよそ半数で毎年100万円以上 の支出があり、最も多い学校は441万円。中学校では最多校が613万円を支出してい た。支出内容は多岐にわたり、教科書や理科実験用具、図書といった学習関連品だけ でなく、机・椅子・ロッカーなどの備品、チョーク・傘立て・清掃用具、体育館ワッ クス、さらにコロナ対策のマスク・フェースシールド・アクリル板・体温計なども含 まれていた。
各学校からは「公費だけでは足りず保護者負担に頼らざるを得ない」「 PTA費を充てなければ学校運営経費を賄えない」との回答が相次いだ。
深刻なのは、PTAの会計が実質的に「第二の財布」化している 実態だ。
「公費は購入の手順が手間」や「PTAからの寄付という認識はなかった」という回答もあり、市教委は10年前の同様の調査後、公費を増額したにもかか わらず、今回の支出総額は当時を大幅に上回っていた。
専門家は「任意団体のPTAの お金を、学校が最初からアテにしているならば不健全」と指摘している
専門家のクセに「不健全」ですませているが、これは不健全どころの話ではなく、違法状態である。
名古屋市の実態:「第二の財布」化するPTA
名古屋市名東区の市立本郷小学校では、教育委員会が設置を認めなかった理科室 のエアコン4台を、PTA会費43万円で購入する事態が発生。
教頭は「本来公費で設置す るべきものと思うが、市教委に柔軟な対応をしてもらえず、PTAに頼る形になってし まった」と説明した。
「本来公費で設置するべきものと思うが」、ってあんたが思うも何もそれは事実であり、思わない人はいないだろう。
名古屋市立371小中学校へのアンケートでは、PTAが消毒液57万円、教室内ロッ カーと大型扇風機30万円以上、給食調理器具などに支出する実態が明らかに。
3年間 で100件以上、金額にして1000万円以上の寄付が確認された。
おそらく、戦後時代から今まで変わることなく続いてきたのだろうから、その総額たるや想像をぜっする金額である。
中に は「会計を学校側が握っており、事実上学校の経費になっている」「教頭先生から会 費が余ったので備品を買っていいか相談された」という回答もあったという。
愛西市の小学校 では、教室のストーブの灯油代までPTAが負担していた事例も判明した。
心理上・事実上の上下関係があったとはいえ、歴代のPTA会長や役員は今、何を思うのだろうか。
「今までずっとこうしてるから」
「教育環境を改善するためだから」
「子供たちの為だから」
「他の学校もそうだから」
そんな言葉でモヤモヤを隠してきたのか、それとも麻痺しすぎて何も思わなかったのか。
おそらくは前例踏襲の錦の御旗の前に何も感じなかったのだろう。
毎度くどいのだが、前例踏襲に疑問を提起する、それは健全なPTAに生まれ変わる最初の一歩である。
専門家の警告と教育委員会の対応
教育行政学が専門の千葉工業大学・福嶋尚子准教授は、「お金を支払えるPTAのある学校だけが学ぶ環境が整い、そうでないところが置いてきぼりになる」と 教育格差の懸念を指摘。
名古屋市の坪田知広教育長は取材に対し、「本来は公費で見るべき話。ルールに 基づいて相談報告がほしかった」と認めたが、正式な手続きを踏んだ寄付は年間数件 のみ。市教委は2023年2月に全学校に正しい手続きを通知したが、3月13日時点で新た な報告はゼロ。
高松市の大西秀人市長は「大幅な財源不足が見込まれ、ただちに学校 運営費を大幅に増額することは困難」と答弁。
ということは、すぐに改めることは できないし、市長としてすぐに改める気はない、ということなのでしょう。
また、植田市議は「義務教育は無償であり、本 来公費で賄うべきものまで保護者に背負わせてはいないか」と市教委の責任を問う。
「背負わせてはいないか」って明らかに背負わせていることは議論・検証の余地もないことがわからないのだろうか。 私の考えではこの呑気な市議も同罪である。
PTAの寄付 変化への道のり:私たちに何ができるか
保護者としてできること
- 疑問を持つことから始める
- この寄付は本当に必要なのか?
- 公費で対応できないのか?
- 断ったらどうなるのか?
- 記録を残す
- 学校からの依頼内容を文書で求める
- PTA会議の議事録を詳細に残す
- 意思決定プロセスの透明性を確保する
- 連帯する
- 同じ悩みを持つ保護者とつながる
- PTAの在り方を見直す動きに参加する
- 情報を共有し、孤立を避ける
名古屋市と高松市の取り組み――変化の兆し
高松市では予算を約7000万円増やし、木太南小学校では「寄付を一切受けない」 と決定。先生たちの意識にも変化が現れたという。「『PTA会費の方からお金をあて ましょうか』というようなことがちょっと前にはありましたけれども、そういうこと が無くなって。見通しをもって計画的に物を購入していくという意識が高まりました 」
名古屋市では河村市長が「学校の予算を増やす」と明言し、1校あたり70万から 80万円の予算増額を表明。税金を充てられる基準について市のホームページで公表す る考えを示している。
坪田教育長も「事実確認を急がないといけない」「構造的なこ とをきちんと把握しないといけない」と対応を約束。
メディアに実態をさらされ、隠しきれなくなったから仕方なく、、、という背景はあるだろうが変化は可能なのだ。
しかし、そ れには保護者、学校、そして自治体(教育委員会)の意識改革が必要である。
学校・教育委員会に求めたいこと
問題が大きくなって隠せなくなってしまって表沙汰になったという事情があるにせよ、名古屋市 や高松市の事例が示すように、自治体(教育委員会)の決断次第で状況は変えられる。
- 予算配分の見直し
- 教育現場に必要な予算を適切に配分する
- PTAへの依存体質から脱却する
- 透明性の確保
- 何が公費で賄われ、何が私費なのかを明確にする
- 「お金の見える化」を進める
- 寄付依頼がある場合、その理由と代替案を示す
- ガイドラインの策定
「真摯な同意があればOK」と言い続けるのであれば、当然その内容は明確にしてくれないと困る。
- 「真摯な同意」の具体的な手続きを明文化する
- 校長に対して「おねだり」をさせない、または単なる希望であって強制力はないことを明確にPTAに伝える
- 公費・私費の負担区分を明確に示す(横須賀市のような取組みも見 られる)
- 昭和42年通達の再評価
- なぜこの通達が発出されたのか、その意義を再確認する
- 現代の文脈で、通達の精神を実現する方法を検討する
エピローグ:「正常な姿」を取り戻すために
校長からの「おねだり」から始まった私の疑問は、日本の教育制度が抱える深い 構造的問題へとつながっていった。
要は、公立学校の教育財源の不足ということだ。
区の教育委員会(他のほとんどの教育委員会も同様だろう)が繰り返した、「真摯な同意 があれば寄付は問題ない」という言葉は、一見すると民主的で合理的に聞こえる。
しかしそれは、本来なら存在してはならない私費負担を正当化するための、都合の良 いレトリックになっていると評価されるべきだろう。
「当事者が納得してるんだからいいじゃないか、今まで通りで問題ない。余計な仕事を増やさないでくれ。」
教育委員会には少なからずこういうバカ連中いるはずだ(っていうかほぼ全員だと思っているけど)。
高松市の1億円、名古屋市のエアコン、愛西市の灯油代――
全国規模で見れば、これらが氷山の一角に過ぎないであろう事は想像に難くない。
もっと深刻で表に出てきていない問題もあるはずだが、それをあぶりだして糾弾するのがここでの目的ではない。
重要なのは「これからどうするか」、それに尽きる。
これは単に「予算不足だった」で済ませてよい問題ではない。
「子どもたちの教育環境のために」という大義名分の下 で、公教育の根幹が侵されてきたことを示す象徴的な事例だ。
憲法が保障 する「義務教育の無償性」が、現場では長年、空文化してきたという現実を直視しな ければならない。
昭和42年、東京都教育委員会は「公教育の正常な姿」を描いた。
それは、すべて の子どもが経済的な障壁なく、公平に教育を受けられる社会である。
60年近く経った 今も、その理想は完全には実現していない。
しかし、諦める理由はない。
名古屋や高松で明らかになった事例をみて、「次はウチか?」とびくびくしてい る学校関係者は全国に少なくないはずだ。
事情はともかく、正常化に向けて始まった変化は、一歩 一歩ではあっても確実に前進している。
一人ひとりの保護者が「おかしい」と感じた ことを声にし、教育委員会が実態を直視し、自治体が予算を再配分する――
この連鎖 が、教育の正常化を進める原動力となる。
放置すれば教育格差はさらに深刻化する。
今こそ、半世紀以上前の通達が掲げた理想を広く周知させるべき時だ。
一人ひとりの保護者が疑問を持ち、声を上げ、つながることで、少しずつ変化は 起きる。
「これっておかしいのでは?」という感覚を大切にし、「いままでこうやってる から仕方ない」で済ませない勇気を持ってほしい。
それが、次の世代のために、私たちが できる最初の一歩なのだ。
行列ができるPTAはその先にある。